青山ミチ 画像 とプロフィールについて書いてみました。青山ミチさんは、1960年代に活躍した日本の女性歌手です。
青山ミチ、パワフルでパンチのある歌声でファンを魅了!日本で最初の黒人の血が流れている実力派女性歌手!!
青山ミチ のプロフィール
芸名:青山 ミチ(あおやま ミチ)
本名:八木 フサ子(やぎ フサこ)
生年月日:1949年(昭和24年)2月7日(68歳)
愛称:ミッチー
出身地:神奈川県横浜市
青山ミチさんは、1960年代に活躍した実力派女性歌手で、おそらく日本で最初の黒人の血が流れている歌手だったといわれています。
1949年に横浜で、日本人の母親(八木キミ子)と黒人のアメリカ兵の父親との間に生まれました。
それから12年後、彼女が12歳になった1961年、ジャズ喫茶が主催する素人ジャズコンクールで入賞したことが、ポリドール・レコード(日本グラモフォン、現在のユニバーサル ミュージック)関係者の目に止まり、それがキッカケで翌1962年「ひとりぼっちで想うこと」で歌手としてデビューします。
デビュー曲である「ひとりぼっちで想うこと」は、残念ながら売れ行きは今ひとつだったのですが、当時としては珍しかった彼女の武器であるパンチのあるパワフルな歌声が評判となり、ジワジワと人気が出て行きました。
1960年代その当時、全盛期だった「中尾ミエ」、「伊東ゆかり」、「園まり」の三人娘がライバルだと言われていたそうですが、実は本当のライバルは、”人形の家”を歌い大ヒットしていた「弘田三枝子」だったともいわれています。
青山ミチさんの曲で、最も知られているのは、1965年発売の「涙の太陽」でしょうか。
この曲は、青山ミチさんと同じく当時日本のアイドル歌手として主に海外ポップスのカヴァーを中心に歌っていた「エミー・ジャクソン(本名:エミー・イートン/日本名:深津エミ)」さんとの競作でした。
青山ミチさんの「涙の太陽」
エミー・ジャクソンの「涙の太陽」
ベンチャーズ張りのエレキの音と彼女らの美しいパワフルなビートが昭和のムードを盛り上げています。この曲は1973年にも、安西マリアさんによってカバーされ、リバイバルヒットを遂げていますます。
青山ミチ、幻の「亜麻色の髪の乙女」
ソウルフルで日本人離れした歌唱力は、当時から高い評価
青山ミチさんの曲は、20数枚のシングルを出したポリドール時代、ヒットしたのは、「ミッチー音頭」と「涙の太陽」ぐらいでした。そして、1966年にはクラウンレコードへ移籍し、より大人っぽいR&B歌謡路線へと方向転換します。
彼女のソウルフルで日本人離れした歌唱力は、当時から非常に高い評価を受けていたようですが、覚醒剤所持で逮捕、万引き事件や度々失踪を繰り返したりなど、度重なる問題行動がわざわいして、持って生まれた素晴らしい才能を生かし切れないまま、やがて芸能界から去って行くこととなりました。
そんな青山ミチさんの、意外な一面が伺える曲が、青山ミチ 「風吹く丘で」です。
この曲は1968年、ヴィレッジ・シンガーズで、また、2002年には島谷ひとみさんがカヴァーし大ヒットした「亜麻色の髪の乙女」の元歌になります。実は、1966年に、青山ミチさんが吹き込んで発売したのですが、発売直後に彼女がポリドールレコードに移籍してしまったため、急遽店頭回収となり、幻のシングルとなってしまいました。
現在では、発売直後に覚せい剤事件を起こして発売中止になったと言う説がネット上で流されているようですが、実際はレコード会社の移籍トラブル絡みだったというのが実情のようです。
レコード会社をなぜ急に移籍したのかという事は、今となってはもう謎のままですが、これが「悲運の実力派シンガー」青山ミチさんたる所以なのでしょうか。