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鎖国 理由 利益 について

鎖国 理由 利益 について書いてみました。一般的に鎖国は、江戸幕府が行った政策で、理由は幕府がその支配を確立しようとして、それと相いれ ないキリシタンを徹底的に禁圧する事と、外交・対外交通・貿易を極端に取り締まり、 制限することによる、利益の一元化をするために江戸幕府がとった対外政策と言われています。

 


日本人の海外往来禁止 (→海外渡航禁止令 ) ,キリスト教禁制,朝鮮 (→朝鮮通信使 ) や琉球との外交関係および中国人,オランダ人との貿易関係を除く他の外国人の日本渡航禁止による孤立状態もさします。

 

文部科学省、次期学習指導要領により、 小中学の社会科で、『鎖国』の文字が消える


 

文部科学省は、2017年2月14日、中学校の社会科次『学習指導要領の改定案を公表しました。それは、中学校の社会科で習う歴史の中から「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。中学歴史でも史料に忠実に、「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」に変えるとしています。

 

 

文部科学省によると、江戸幕府は完全に日本と海外とをシャットアウト、いわゆる『鎖国』をしていたわけではなく「長崎でオランダや中国との交易を許し、薩摩(鹿児島県)、対馬(長崎県)、松前(北海道)でも外交と貿易が行われていました。

 

 

完全に国を閉ざしていたわけではなかったため、当時の実態に即して表記することになりました。

 

 

 『鎖国』は1801年、ドイツ人医師の著書の一部が和訳され、『鎖国論』と名づけられたことから広まったと言われていますが、文部科学省の担当者は『幕府の政策に関し、鎖国という言葉は使われていなかった』としています。これに対し、「開国」という語は、欧米諸国との関係を表す際に実際に使われていたため、現状のまま残すことになりました。

 

 

『鎖国』は、徳川幕府が利益も含め200余年にわたって維持し続けてきた特異な政策か

 

 

『鎖国』に関する主な出来事

 

1624年、「切支丹」(キリシタン)の国である、スペイン船の来航を禁止し、1935年には日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁じます。

 

 

キリスト教徒が多かった天草・島原半島で起こった百姓一揆「島原の乱」(1637~1638年)を鎮圧。

 

1639年:ポルトガル船の来航禁止。

 

さかのぼる1543年、ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えます。また、マカオを拠点に中国の産物をたくさん日本にもたらしました。いわゆる「南蛮貿易」です。そのポルトガル、スペインとの貿易にこの時ピリオドが打たれました。

 

 

1641年:江戸幕府は平戸にあった「オランダ商館」を長崎の「出島(でじま)」に移し、入港できる船は、オランダと中国の船だけに限定、これで鎖国(と呼ばれたもの)が完成です。

 

幕府は本当に鎖国をしたのか?

 

イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが1549年に来日して布教を始めてから、キリシタン大名による保護もあり日本にキリスト教徒が増加していきます。幕府による本当の鎖国の狙いは、キリスト教を根こそぎ禁圧することだったとも言われています。

 

 

その背景には<カトリックに帰依した国民は国への忠誠心を失ってしまい、また、ヨーロッパ列強国による日本の侵略(植民地化)という危険を感じてのこと(ドナルド・キーン『日本人の西洋発見』中公文庫)があったとも記録されています。

 

 

その一方で、徳川幕府には、対外貿易の窓口で利益を独占することにより、他の大名が貿易によって富強化するのを阻止できるという思惑もありました。

 

 

またオランダは、日本の徹底した統制に合わせているかのように見せながらも、着実に利益をあげ、対日貿易については一極集中化、独占化をはかったといえます。

 

 

ただしこの間外国との貿易については、オランダ、中国以外にも、九州地方の対馬藩を通して朝鮮と、さらには薩摩藩=琉球王国、松前藩=アイヌ民族のルートでそれぞれ交流・交易が行われていました。